開業してすぐに難病に襲われる 「ごめんなさい……当時を思い出すといつも泣いてしまうもので……」 越石氏が涙しながら語ったのは、39歳のときに難病に襲われた壮絶な過去だ。鍼灸院を開業して、昼夜忙しく患者の治療にあたっているときに、そのときは突然訪れた。 「高熱が1カ月も続いて、腎盂炎と診断されたものの、抗生剤も全く効きません。体調は日に日に悪化していくばかりでした」 越石氏が鍼灸学校に入学したのは、35歳のとき。次女が幼稚園の年長に上がったタイミングでの決断だった。嫁いだ先の義母が鍼灸院を開業していたことから、自身のセルフケアとして鍼を初めて経験。つわりが驚くほどに緩和され、驚いたのだという。 難病が越石氏を襲ったのは、学校を卒業して開業に踏み切り、まさにこれから、というときのことだった。開業して間もない鍼灸院を休業して治療に専念したが、一向に希望の光は見えない。大学病院に転院しても、抗生剤を出されるだけ。治らないばかりか、問題のなかった肝臓の数値にまで異常が出てきてしまい、抗生剤も打ち切ることになる。 「君の症状の原因は、迷宮入りだね」 医師がそう匙を投げてしまうほど難しい症状だった。西洋医学から見放されるという、絶望的な状況のなか、越石氏は鍼に頼る、いや、すがることになる。 わらをもすがる思いで鍼に頼るが…… 長女を出産したときには、つわりが重くて苦しんだ越石氏だったが、鍼をしたことで次女のときには、つわりは軽減。見違えるほどに食欲が出たという。 鍼には何か特別な力がある。もしかしたら、何とかしてくれるかもしれない。すでに、歩行も困難だったため、鍼灸院にはタクシーで通うこととなった。少しでも良くなるならば、どんなことでもやる。そんな思いだった。 だが、わずかな希望は、もろくも打ち砕かれることとなる。 「名のある先生の鍼灸院に1カ月通いましたが、全く治りませんでした。それどころか、症状に変化さえなかったのです」 それでも、もはや越石氏には、鍼灸しか道はない。まさに藁にもすがる思いで、もう1カ月通った。それでも症状は少しも変わらなかったという。 「すでに口も利けず、水もろくに飲めませんでした。家族はみな、死ぬんじゃないかと心配していましたね。よろよろ歩きしかできないような状態が続いていましたから」 そんななか、越石氏のもとを訪れたのが、安藤譲一氏(元・日本鍼灸理療専門学校副校長、元・埼玉県鍼灸師会会長)である。 初めての紫雲膏灸で命を救われる かつて越石氏は安藤氏のもとで鍼灸を学ぼうと、熱心に通っていた。急に姿を見せなくなった越石氏のことを心配しての来訪だった。 「僕が少し診てみましょうか」 そう言うと安藤氏は往診して、越石氏の治療にあたった。安藤氏の治療スタイルは、パルスをかけながら、紫雲膏灸を行うというもの。ただこのときは、鍼は一切せずに、紫雲膏灸を糸状灸で行うのみだった。 「とても鍼刺激ができる状態ではなかったのでしょう。柔らかい灸刺激で、身体にエネルギーが入ってくるのを感じると、涙があふれてきたんです。ああ、これでやっと良くなるって。そう思えたんです」 多忙な安藤氏から治療を受けたのは、2回だったが、越石氏は確かに手ごたえを感じたと、涙ながらに語った。その後は当時、中学生だった長女が越石氏に毎日、背骨と両脇に等間隔で灸治療を行う日々が始まった。 「この頃はもう起き上がることさえできませんでしたが、娘にお灸を2カ月間、続けてもらったところ、信じられないことですが、起き上がれるまでに回復したんです」 そして、さらに1カ月続けたところ、見事に完治してしまったという。お灸に命を救われた越石氏。一度は諦めた、残りの人生をどう過ごすか。それを考えたとき、おのずと答えは定まっていた。 「私はこれから、お灸だけの治療をやろう」 お灸をひたすら探求する旅路は、この時から始まったのである。 ー後編に続くー (後編)【「越石式灸」はなぜあらゆる症状に効くのか?】糸状灸と多壮灸の組み合わせでアプローチする はこちら→
開業してすぐに難病に襲われる 「ごめんなさい……当時を思い出すといつも泣いてしまうもので……」 越石氏が涙しながら語ったのは、39歳のときに難病に襲われた壮絶な過去だ。鍼灸院を開業して、昼夜忙しく患者の治療にあたっているときに、そのときは突然訪れた。 「高熱が1カ月も続いて、腎盂炎と診断されたものの、抗生剤も全く効きません。体調は日に日に悪化していくばかりでした」 越石氏が鍼灸学校に入学したのは、35歳のとき。次女が幼稚園の年長に上がったタイミングでの決断だった。嫁いだ先の義母が鍼灸院を開業していたことから、自身のセルフケアとして鍼を初めて経験。つわりが驚くほどに緩和され、驚いたのだという。 難病が越石氏を襲ったのは、学校を卒業して開業に踏み切り、まさにこれから、というときのことだった。開業して間もない鍼灸院を休業して治療に専念したが、一向に希望の光は見えない。大学病院に転院しても、抗生剤を出されるだけ。治らないばかりか、問題のなかった肝臓の数値にまで異常が出てきてしまい、抗生剤も打ち切ることになる。 「君の症状の原因は、迷宮入りだね」 医師がそう匙を投げてしまうほど難しい症状だった。西洋医学から見放されるという、絶望的な状況のなか、越石氏は鍼に頼る、いや、すがることになる。 わらをもすがる思いで鍼に頼るが…… 長女を出産したときには、つわりが重くて苦しんだ越石氏だったが、鍼をしたことで次女のときには、つわりは軽減。見違えるほどに食欲が出たという。 鍼には何か特別な力がある。もしかしたら、何とかしてくれるかもしれない。すでに、歩行も困難だったため、鍼灸院にはタクシーで通うこととなった。少しでも良くなるならば、どんなことでもやる。そんな思いだった。 だが、わずかな希望は、もろくも打ち砕かれることとなる。 「名のある先生の鍼灸院に1カ月通いましたが、全く治りませんでした。それどころか、症状に変化さえなかったのです」 それでも、もはや越石氏には、鍼灸しか道はない。まさに藁にもすがる思いで、もう1カ月通った。それでも症状は少しも変わらなかったという。 「すでに口も利けず、水もろくに飲めませんでした。家族はみな、死ぬんじゃないかと心配していましたね。よろよろ歩きしかできないような状態が続いていましたから」 そんななか、越石氏のもとを訪れたのが、安藤譲一氏(元・日本鍼灸理療専門学校副校長、元・埼玉県鍼灸師会会長)である。 初めての紫雲膏灸で命を救われる かつて越石氏は安藤氏のもとで鍼灸を学ぼうと、熱心に通っていた。急に姿を見せなくなった越石氏のことを心配しての来訪だった。 「僕が少し診てみましょうか」 そう言うと安藤氏は往診して、越石氏の治療にあたった。安藤氏の治療スタイルは、パルスをかけながら、紫雲膏灸を行うというもの。ただこのときは、鍼は一切せずに、紫雲膏灸を糸状灸で行うのみだった。 「とても鍼刺激ができる状態ではなかったのでしょう。柔らかい灸刺激で、身体にエネルギーが入ってくるのを感じると、涙があふれてきたんです。ああ、これでやっと良くなるって。そう思えたんです」 多忙な安藤氏から治療を受けたのは、2回だったが、越石氏は確かに手ごたえを感じたと、涙ながらに語った。その後は当時、中学生だった長女が越石氏に毎日、背骨と両脇に等間隔で灸治療を行う日々が始まった。 「この頃はもう起き上がることさえできませんでしたが、娘にお灸を2カ月間、続けてもらったところ、信じられないことですが、起き上がれるまでに回復したんです」 そして、さらに1カ月続けたところ、見事に完治してしまったという。お灸に命を救われた越石氏。一度は諦めた、残りの人生をどう過ごすか。それを考えたとき、おのずと答えは定まっていた。 「私はこれから、お灸だけの治療をやろう」 お灸をひたすら探求する旅路は、この時から始まったのである。 ー後編に続くー (後編)【「越石式灸」はなぜあらゆる症状に効くのか?】糸状灸と多壮灸の組み合わせでアプローチする はこちら→